地獄の戦場、沖縄戦。 [ふだんのコト]
沖縄県平和記念資料館:地獄の戦場、ガマ(洞くつ)の展示
前記事、証言の部屋の写真に興味を持たれた方がいらっしゃったので、もう少し書こうと思いお付き合い下さい。
なんとも重苦しいタイトルだが、住民達の側からみた沖縄戦、特にガマについて少しお話をしたい。
その前に沖縄、特に南部の高齢な方は戦争について語るのを拒みます。あまりにも辛い出来事でしたから思い出すことだけではなく、たくさん亡くなってしまったことです。そっと一人にしておいて欲しいという願いがあるのではないでしょうか。
どうか少し書かせて頂くことをお許し下さい。
沖縄には「ガマ」と呼ばれる自然に出来た鍾乳洞がたくさんあります。その数は全国一であり、平地の畑の中にぽっかり口を開けていることが多い。これは琉球石灰岩が水によって浸食形成されたものである。つまり地下水に恵まれているため住民達の避難場所や、日本軍の陣地、野戦病院として使われました。
・・・・・日本軍は首里城決戦を避けて南部の糸満(いとまん)や南風原(はえばる)に撤退し持久戦をとりました。米軍は大がかりな掃討戦を仕掛け、民間人を含めた悲惨な戦場と化しました。ガマの中では日本兵による住民虐殺や強制による集団死、餓死、ガマの外では米軍の砲爆撃、火炎放射、ガマの入口を土砂で埋めてしまうなど殺戮がありました。まさに阿鼻叫喚の地獄絵のような戦場でありました。
沖縄県平和記念資料館:地獄の戦場、ガマ(洞くつ)の内部展示。
写真、左の日本兵が外からの米軍の進入に警戒しながら、住民にうるさいと銃口を向けたわけです。
住民を守っているわけではないんですよ。
実際にはガマの内部は真っ暗闇であります。ただ、三ヶ月もこの中にいると瞳孔が開いて見えるようになったと聞いています。そんな中でとてもこんな隙間には入れないだろうと思うくらいの岩の割れ目のなかに身を寄せてじっとしていたんです。石灰岩ですから岩肌がトゲトゲで触るだけで痛いんですよ。
証言をひとつ紹介します。
当時14歳の女性です。
そこには2、3日いる間に
避難民が10人あまりなだれこんできたことがありましたがね
そこは兵隊の陣地壕(ガマ)ですから 民間人は入れなかったんですよ
それでも あまり艦砲がはげしいので
ちょっとの間だけ入れて下さい と泣きこんで入ったんです
その人達の中に 子持ちの女の人がいました
その女の人の2才くらいになる男の子があんまり泣きわめくもんだから
兵隊がひどく怒って しかりつけたんですよ こどもを泣かすなって・・・・・
それでもこどもは泣きやまない
そしたらね そのお母さんは 子供をつれて出て行ったんです
・・・・・しばらくしたら お母さんひとりだけ帰ってきたんですよ
子どもをどうしたのか わかりません
けどね・・・・・そのおかあさんなんにも言わないし
だれも子どものことをきこうともしませんでした
それから、25年後。
この唄は大ヒットしました。私も滅多に行かないカラオケではよく歌います。
はじめまして。こんばんは。
沖縄はリゾート地として発展してきていますが、
戦争に対する沖縄の人達の心を考えると、とても
重たいものがあります。
自分も「平和の礎」に行ってなんとも言えない気持ちに
なりました。
沖縄の人達の心が癒されるように節に願っています。
by hiropi (2005-09-14 18:16)
この歌・・・きいたことあります。
沖縄ってそうなんですよね。正しき歴史を知り、後世に伝え、自分達が
何ができるか考えていきたいと思います。沖縄の人は未だに味わうことの
ない人生の辛酸があるとうかがったことがあります。
平和を願うだけではなくあらゆる偏見と無知と戦います。
それが平和に通じていく第一歩だと信じて・・・。
by purios2030 (2005-09-14 21:58)
そんな沖縄の人たちが、
今も「基地」という重荷を背負わされつづけているという矛盾に、
深い痛みを感じます。
by まさぽん (2005-09-14 22:39)
戦争は人を鬼にしてしまいます。
国民を守るべき軍隊が自国民に銃口を向ける。
狂気の沙汰ですね。
一度だけ沖縄の最西端海岸へ行き、海を見ましたが、一人涙が出てきました。
by Baldhead1010 (2005-09-15 07:40)
私もこの歌をきいたことがあります。
私も知らない世代ではありますが、いろいろ知ることで、伝えてゆかないと、、
by nyan (2005-09-15 08:41)
この歌が出て来るとは・・・
中学の時、何かの行事の時に(忘れたのですが)、この歌を歌いたいと音楽の先生に言ったら、「そんな反戦歌はダメだ」と言われました。多感な時期でしたから、アホじゃんとか思っていました。数十年後の同窓会の時に、先生は「あの時に、あんなことを言ってすまなかった」と。
その先生も自分が言ったことをず~~と忘れなれなかったんですね。
まだまだフォークソングが反戦歌と思われていた頃の話です。
戦争に加担するのも、息子が戦場に赴くのも絶対にイヤです。
by (2005-09-15 09:04)
10年前になくなった父の背中は傷だらけ、銃痕がいくつも付いていました。
以前私が、沖縄の食に関する作品に関わったとき
取材をしてきた私たち以上に沖縄の食べ物に詳しい父に
「なんで、沖縄にくわしいの?」と聞いたことがあります(無知でしょう?)
答えは「兵隊でいたんだよ・・・・」
ああ・・・あの背中は、そういうこと と納得
戦争を知らない子供ですが、沖縄戦と言うと、父の背中を思い出します。
by ビンゴ (2005-09-15 10:32)
誕生日が広島に原爆が落ちた日なので、
幼い頃は非常につまらない思いをしました。
でも修学旅行で長崎の原爆記念館に行って
「忘れてはならない」日なのだと、考えを改めました。
TVでニューズを見て、思い出した友人から
「おめでとう」メールが入ったりして、それはそれで嬉しいのですが、
戦争を知らないということは、
つまりはこういうことなのでしょう。
by 猫ふみふみ (2005-09-15 10:34)
戦後60年経ちましたが、私の伯父は未だ遠い南の海に眠っています。世界中に同じような人がどれほどいることでしょう。
戦争は知りませんが戦争はやってはいけない事だと知っています。
by ウイリー (2005-09-15 11:19)
しつこく登場して すいません(汗
こちらにも 感謝の気持ちを・・・・
ありがとうございました。
by ビンゴ (2005-09-15 13:37)
そういう犠牲の上に築かれた今の平和を維持しつづける義務がありますね。
by (2005-09-15 15:23)
◆ひろぴさん、初めまして、行かれましたか。数の多さに佇んでしまいますよね。コメント有り難う御座います。
◆blessyさん、いつもniceあんがとね。しかもコメントがすばらしい。記事を書いてよかった。
◆まさぽんさん、ありがとう、日米安保の最後で最大の課題ですね。
◆Baldhead1010さんいつも有り難う御座います。バンザイクリフは沖縄にも存在しました。軍中央の最後の沖縄への司令が玉砕しろに等しい内容でした。ここで降伏していれば広島も長崎も避けられました。
◆nyanさん有り難う御座います。そういって頂くと嬉しいです。
◆こぎんいつも有り難う御座います。素敵な先生ですね。中学の時ですか、・・・数えてます・・・同い年!!。文字のやりとりってどんな方か常にあるんですかね。失礼しました。
◆ビンゴさん、いつも有り難う御座います。そうだったんですか、お父さん戻れて良かったですね。うちの親父は満州でした。2度も出兵しました。
◆猫ふみふみさん有り難う御座います。ニックネームゴロがいいですね。すぐ覚えちゃいます。そう忘れてはならない日、誕生日も。
◆ウイリーさん?・・・わかった!。梨有り難う。はははっ、朝帰りのウイリーさんだ!。
◆ビンゴさん、ご丁寧に有り難う御座います。メールも拝見しました。喜んで頂いて嬉しいです。もちろん記事にして頂いて結構ですよ、私も楽しみです。
◆tanaka-ma3さんいつも有り難う御座います。そうですね、前を向いていくことです。
by ヴォイス (2005-09-15 17:44)
人間は愚かなのでまた同じ轍を踏む事になる。悲しいけれどそれが現実だ。望むらくはわたしの生きている間にその当事者になる事だけはない様にしたいと思うのはエゴだろうか?
by U3 (2005-09-16 19:40)
どんな大義名分をかざしても、戦争は必要悪には成り得ない。
国家が個々の人生を翻弄し愚弄するような世の中になってはならない。
・・・今も心の傷も癒えない沖縄の方々に胸が痛んでなりません。
by yukiz (2005-09-17 09:13)
◆ブラウンパパ さん、有り難う御座います。テロという定義ではオウムのようにすでに当事国になってしまってます。
◆yukiz さん、有り難う御座います。一時平和ボケなどと言われてますが沖縄を見てきっかけにしたいと思います。
by ヴォイス (2005-09-17 10:13)
私はあまり沖縄の事を知りません。ですからとても勉強になりました。
子どもの頃、父が沖縄の日本復帰のために何度も沖縄に行って家にいなかった思い出があります。
by (2005-09-23 20:11)
ガマではどんなものが見学できるのでしょうか?教えて下さい!!
by パンダ (2005-10-23 22:23)